未知ログ:私を発見していく

発見とチャレンジと好奇心の記録を集めていく場所 -Beyond the Unknown

陶芸教室⑱

 

私はずっと訓練が嫌いと思っていた。

でも陶芸を始めて、意味や仕組みがわからないまま、外から与えられた方法を繰り返すような訓練は苦手だけれど、自分で納得した方法、自分に必要が分かる方法の訓練は苦痛ではない。

 

陶芸は先生の指導がないと何も出来ないないところから始まり、でも常に再現は自分の感覚に任せられるというわかりやすさが楽しいから、手を動かし訓練している。

 

陶芸という「型」があり、土の扱い方、力の入れ方、道具の使い方、手順などを順番に先生から教わってきた。

でも先生と同じ器など作れない。それは言い替えたら、私には、先生と同じ器を作るを目指さなくてもいいでもある。

同じ土なのに、先生の「型」に準ずるのに、技術力で全く違うものしか出来ない。

それは、精一杯私として、先生の技術を受け取ろうとしているけれど、最終的には、再現は私の身体感覚で行うしかないということだからだ。

自分の感覚に委ねられてしまう。

それが私には、いま心地いいのだろうと思う。

ずっと知識や言葉を中心に暮らしていると、正しい答えを再現することに、引っ張られ過ぎてしまうことがある。

でも、私は、教わったものを自分の中で、確かめたり、育てる余白が常に必要で、陶芸はそこがあらかじめ許されている領域だなと思えるのだ。

お盆で陶芸教室もお休みだったので、久しぶり教室に通えることが、楽しみで仕方ない。いまここで、そういう場所が自分にあるのは、とても幸いなことだと噛みしめている。

陶芸教室⑰

今日は、数ヶ月ぶりに削りに挑戦した。

粘土をひくより、削りの方が、感覚を忘れていなかった気がしている。

でも、やはり、削りの前段階の粘土のひきが悪いと、どうしても削りも難しくなるのだ。

均等にひけていない、ゆがみの出ている器を、削りの技術が、まだまだの私では、上手く削れないという当たり前を、思い知らさせる。

基本はブレていない、ゆがんでいないひきの器を作って初めて、ちゃんと削れていくということ。

でも、ひさしぶりの削りだったので、隣の電動ロクロで、先生がご自分の作業をしながら、指示したり、削り方の見本をやって見せてくださったりしたお陰で、私の中で、ひとつ上手くいかないことの原因が、わかったことは大きな発見。

 

そして、指示していただいた通りに、削ったら、あっ、こういうことかと理解出来たことが、今日の喜び。

なんとか、カタチになった茶碗をひとつ、焼きに回してみることにしたので、どう焼きあがるかは、またのお楽しみだ。

 

連日の暑さで、体調を崩さず、間を開けずに、通い続けられることが、今のわたしには、ひとつ大きな目標だ。

明日、どうなるかなんて誰にもわからないからこそ、いま、自分が出来ることを、やり続けていくしかないなと感じた一日だった。

ジタバタした先に

 

人には誰もしも矛盾した性質を内包している。

私にも、とても合理性を好む部分と、面倒くさいなと自分でも思うぐらい、

効率など全く考えずに、何度も立ち止まって、”本当にそうなんだろうか?”

と問いかけ続けたり、確かめるための試行錯誤をしてしまう部分がある。

 

自分で自分を上手く扱えるようになる迄には、ジタバタを繰り返した。

やっと年齢を重ねて、それは単なる欠点として、切り捨てられるものではなかった。

と実感している。

 

簡単に答えを出せない。

納得するまで粘るは、私には、何かを深く知る、わかっていくための土台だったなと改めて感じ始めている。

 

そのために、動きが遅く、考え過ぎたり、こだわり過ぎて、

前に進めなくなることもある。

それでも、これが自分の進み方だと受け入れている。

 

早く進むことより、自分なりの納得をして進むこと。

わかりやすく言い切れなくても、自分の感覚を裏切らないこと。

それでしか、進んで来なかったし、そんな進み方しか出来ない。

それが自分だ。で、もういいのかもしれない、と思えるようになったことも、

私にはひとつの発見なのだろう。

 

 

陶芸教室⑯

今日は削りだ!と思って行った、先生から、前回の最後の挽きがグダグダだったから、

しばらく、感覚を取り戻すまで、集中的に挽いた方がいいと思いますと提案されたので、今回も電動ロクロで粘土を挽いた。

 

時間内に湯呑を二つ挽くことが、目標。

とても暑かったので、粘土が柔らかめだ。

気候や気温によって粘土の固さは違うし、乾き具合も異なる。

 

今日こそは芯が出せるといいなと、気合を入れてロクロの前に座るも、粘土が全く思うようにならず、トルネード状にねじれてしまう。

力を入れ過ぎているんだなとわかるが、なかなか立て直せない。

粘土を力で思うようにしようとするのは、間違いだとわかっているが、どれくらいの力加減なのかが、つかめなくて、今日は正直、もうダメかもしれないな、という気分になる。

芯が出せないまま、粘土を殺し、粘土を均一化して、扱いやすく成形していかなければと、行程も意味もわかっているのに、私の手は、粘土をどんどんねじらせてしまう。

そんな状態を繰り返していたら、先生がサポートしてくださり、土台の成形を作ってくださった。

先生が手を出して、手伝ってくださったのは、ひさしぶりだった。

土台がしっかりできれば、あとは上に挽くだけだ。何とか削りの練習に回せるカタチを成形できた。

でも、挽き終わった器は、カタチが歪んでいるので、ああ芯が出てないなとすぐわかる。

気を取り直してもうひとつ分を、同じ練習の繰り返しだ。

芯出しを始めようとすると、先生が、初期の頃のように、基本の姿勢、腕の位置、手の動かし方を、言葉で指示してくださった。

その言葉に素直に、土に触れていく。

「力で粘土を思うようにしようとしないで、粘土にお願いする気持ちで、力まず、ゆっくりやりましょう!」と言われる。

そうなんんだよ、無駄に力が入っているのは、わかっているけれど、どうすれば?という迷いの中だったが、先生の指示に従って、土に触れていたら、土は捻じれなかったのだ。

すっかり忘れていた感覚を、少し思い出してきて、自分がどれほど、力まかせに、土に触れていたのかを、やっと体感した。

「ひとつ目と全然違うよ、いいね」と言ってくださる。

そして、芯だ出せた時に、嬉しくて泣きそう。

でも次の試練が待っている。せっかく芯が出せたのに、土台がブレてしまい、土台がブレた粘土は上手く挽けないのだ。どんどん歪んで成形できなくなる。

二つ目は削りの練習のための器のカタチにするというところまで、

持っていけないで、終わった。

 

先生に、惜しかった!あともう少しだねと慰めていただき、今回は終了。

でも、約10カ月かけて、電動ロクロと向き合った過程の全てを、忘れてしまった訳ではないという実感を、今日は持てたのでよしとしよう。

 

やはり、いまは大事なところだから、じはらく連続して挽きに集中しましょうとなった。

 

他の生徒さんが、素敵な作品を、どんどん作っているのを、横眼でみて、ふと私ももっと、気楽に手びねりでお皿とか作ってもいいのかもな~と思ったりもするが、やりたいと思ったことを、今、上手く進まないからと、やめるのは、私には無理だなと思い直す。

趣味だからこそ、自分のこだわりに徹底するを、出来るところまでやってみたいんだと改めて実感した時間となった。

 

陶芸教室⑮

前回粘土をひいたから、今回は削って、作業の一連の流れを思い出すのはどうですか?と先生に提案されたけれど、今回もひかせてください!と前回に続いて粘土をひいた。

 

そして、今回も芯出しが出来ず、失敗を重ねた。

電動ロクロに挑戦を始めたのが、昨年の7月だったから、かれこれ1年だ。

 

でも、おおよそ2カ月休んだので、覚えかけていたことを忘れたんだねと、先生から指摘される。

本当に習得できていたら、数ヶ月離れても大丈夫だけれど、覚えかけのところだったから、大事なタイミングで残念でしたねと言われた。

それは、自分でもわかっていた。

半信半疑の中で、少しずつ進んでいるのかな?という体感だったのだから。

また、覚えて行く、わかっていくために、回数を重ねていくしかないということだ。

 

趣味なんだし、健康が一番だし、無理せず、たのしみながらやってくださいという励ましをいただく。

そうなんだけれど、素直にそう思えない自分がいる。

上手くいかないからこそ、駆り立てられる。

他人と競うのは、苦手だし、自分を負けず嫌いだとも思えないけれど、たいていは腰が重く、逃げるが勝ちと思っているところも多分にあるのに、自分がやりたいと思ったことに対しては、本当に諦めの悪い私がいる。

 

当たり前過ぎて、ご本人に言ったら返って失礼になるけれど、先生が粘土に触れると、粘土は生き生きと動く。

見惚れてしまう。

私の粘土は、なかなか動いてくれない。私の手はまだ粘土を生かせないということだけは、切実にわかっている。

次回は削りだ。さてどれだけ覚えていて、どれだけ忘れているのだろうか?

そこを確かめにまた挑もう。

陶芸教室⑭

 

久しぶりに随分と休んでしまった陶芸教室に、雨の天候の悪い日に出かけて行った。

再開しようと決めた日に、天気が悪いから行かないというのは理由にならなかった。

私はやっと行けるだけの準備が整ったという気分だったので。

しばらく行かなくて、なんとなく足が遠のいて、辞めてしまうという展開もあったのかもしれないと思うけれど、もう辞めていいとは全く思ってなかった。

今日から再開しますと事前に連絡もせず、行って、問題なく受け入れてくれる環境の心地良さを感じられた。まあ、体調に問題があって、通えなくなっていたのだから仕方ないのだけれど。

行ったら、すぐに焼き上がりがあるよと声をかけていただく。

休む前に焼きに回していた、お茶碗が出来あがっていた。

釉薬にしぶい赤茶を選んで、手塗りしたのが、意図せず、まだら塗りになって出来上がっていて、それが味になっていていいと先生は言ってくださった。

うん。今回は素直に私も悪くないと思えた。

茶碗の口元のボカシた感じも、それなりに出ている。

 

今まで幾つか焼きあがってきた、器の中で、自分の中では、一番イメージがいい意味で裏切られてなくて、嬉しかった。

 

そして、本当に何カ月ぶりだろうか?

電動ロクロで、粘土をひくことから再開するも、今日は全く粘土の芯だしだ出来ず、芯が出せないということは、土台が出来てないということなので、うまくいかないという

苦しい練習時間となった。

 

それでも、余計なことは一切考えず、ただ集中して、粘土と向き合うことだけをやれる時間は、かけがえのない、自分にとっては、大事な時間だなと、実感した。

 

芯が出せる時もあり、今回のように全く駄目な時もあるということは、まだ私は芯を出すということをマスター出来てないんだなと自覚した。

ここからの目標は、いついかなる時も、当たり前に芯がだせるというレベルに、自分を持って行きたいだ。

更にいつも何を作ろうと決めないで粘土をひいていたけれど、当分は、まっすぐ均等に引けることの訓練として湯呑を作ることの、量をこなしたいなと思った。

趣味なんだから、毎回つくたいものを、つくればいいという考え方もある。

でも自分の欲望は、そういう方向には進まないで、自分の出来ることを、ひとつでも技術として確かにしたいという方向へ行きたいんだなと、今日芯がだせないで凹んだからこそ、改めて思う。

陶芸教室⑬

前回、陶芸教室⑫を書いてからもうすぐ2ヶ月が経過しようとしている

beniyazakuro.hatenablog.com

今読み返してみると、自分でも、陶芸やりたい!という熱く逸る気持ちに追い立てられるような感じだったなということを、振り返れた。

 

その後、体調が思わしくなくて、しばらく陶芸教室を休んでいる。

自分の気持ちだけでは、上手く物事が進捗していかないことに、向き合うしかない。

こういう自分の盛り上がりと、現実の流れが上手くかみ合わない時に、若い頃は、大事だと思っていたものを、容易く手放してきたのかもしれないなと、思ったりした。

 

生きているうちに、自分の作りたいイメージに、自分が技術が追い付くのかもわからない中で、それでも、その時々で、いまの私が出来ることを、やっていくしかないという諦めが身についたので、いまは、焦らず、また習慣として、陶芸教室に通える日常を取り戻したいなと思うしかない。

 

「和紙染め」に挑戦した器が焼きあがって完成した。

出来上がりは、自分がイメージしたものとは、今回も違っていたけれど、ひとつ私の中で「和紙染め」面白いなという感覚を得たので、またどこかで、違う柄で、「和紙染め」に挑戦しようと決めたところだ。

 

始めたはがりの頃は、何も特に作りたいものが無かったのに、最近、いつかこんな感じのものが作れたいいなという、希望というか、イメージを持てるように成れたことは、私にとっては、成長なのかもしれない。

 

前回の、自分の中で陶芸もっとやりたい!という逸る気持ちは、私がもっと若ければ、もっと陶芸にコミットするための時間や、環境を獲得するために行動したかもしれない。

その可能性は、ふと考えてみた。教室に通う頻度を増やそうかとか。

でも結局、そうせざるを得ないほどの欲望ではないと、判断したのだ。

自分には、他にもやりたいことや、時間を注ぎ込みたいことがあるということが、逆に明確になったのだ。

 

決まった頻度の中で、一定のペースで、今は継続して行きたいと思っている人生初の本気の趣味なんだというところに、「陶芸」は落ち着いてきたのだと思う。

そして、何もリサーチせず、軽いノリで、通いやすいからという理由で選んだ教室が、私にとっては大きな当たり!だったんだなという偶然の産物に、感謝しながら、また再開できるための、コンディションを整えていこう。